菊池光の再来

◆『ペイパー・ドール』が売れた日

数日前、Amazonマーケットプレイスの歴下亭で『ペイパー・ドール』に買い手が付いた。しかも結構な高価格設定にもかかわらず、だ。中を点検しているうちに10数ページまで読み進んでしまった。で、ふと「え?こんなこと前にもあったような」気がして、その訳を追究してみた。なんせヒマは腐るほどあるんで。

アメブロに書いた記事を見つけた(一部変更)

*ディック・フランシス『再起』をオモシロく読ませてもらった。R・B・パーカー熱は再来することなく、ブロックのスカダーも絶えて久しい。「読書メモ」をひっくり返してみると、この<D・フランシス熱>には周期性があるようなのだ。インターヴァルは一定ではないが(それは周期性ではない?)今まで3度、集中的に読み漁ったとの記録が残っている。長期休養明けというわけだ。

*メモをもって書店や図書館に行くわけではないので、既読のモノを買ったり借りたりは珍しくない。時には途中まで読み進んで「あれ?これは…、この先こうなるんじゃなかったかな」と気づいたりすることもこれまたよくある。特にD・フランシスの場合はタイトルが全部漢字2文字であるため、記憶がどこかで入り混じってしまうのだ。でも、結局最後まで読まされてしまう。僕にとって、そこがほかの作家との圧倒的な差異なのだ。

*4度目(だと思う)の熱は『祝祭』から始まった。それから『拮抗』そして『再起』と来た。例によって書かれた順序は無視して手近かなものから、というスタンスは変わらない。が、ブランクの間に訳者が変わっていたことに、最初は気づかなかった。ディック・フランシスの名前と並んでフェリックス・フランシスの名前があることとその理由は承知していたのだが。「あとがき」にだったか、そのことが書かれていなければまだわからずじまいだったかもしれない。そのくらい訳者交代の違和感がないのだ。パーカーでもさんざんお世話になった訳者・菊池光さんにお礼と哀悼を。

*カタカナの表記等々多くの特徴をもった専属(?)訳者の文体。男性主人公の言動や細かなニュアンスを男性が翻訳するのと女性がするのとは、さまざまなところでムズカシさがあるかもしれない。「そうだ、京都へ行こう」じゃないけど、「そうだ、D・フランシスの冒頭部分だけを抜き出してみよう」と思いついたのも4度目の熱あたりからだ。書架に何冊かしかないのはわかっている。でも探すのがちょっと…というわけで、図書館に通い始めた。

*ディック・フランシスは「最初のフレーズができればもう完成したようなもんだ」と考えたかどうかしらないが、とにかく上手い。何作品かは読書ノートに書き出してあり、足りないところを図書館で、と考えたと思し召せ。ところが足立区の、特に我が家の近くの図書館には文庫も含めて7冊しかない。そのへんの愚痴はともかく、ブログネタとしてはいいかも、っつうわけで何回かにわけて書こうと<密かに、あくまで密かに>意欲をあおっているところです。仕事でもそうだけど「企画はいいんだよね」ってことにならないように、ならないように!!

*「シッド・ハレー」はどこかに飛んじゃったけど、おお神よ我にたっぷりの書く時間を与えたまえ!(2011年11月8日)

◆デジャヴューの元はこれだった

『ゴッドウルフの行方』から始まり、少々物足りなくなってきた最後の3~4作(多分)まで、新作を心待ちにして購入した。『失投』は文庫本が先に出たようにも記憶しているが定かでない。現在何冊残っているかもわからない。が原作→訳者のイメージがこれほど強烈に印象付けられ、固まってしまうのはあまり例がない(ブロックもちょっとそうだけど)気がする。

僕のなかで翻訳者(半ば著者と同列)菊池光が再来した、というお話でした。