オモシロくてかつナルホドなのは内田樹

『ためらいの倫理学』再々再々読。拾い読みだけど

◇座右の書というのがあるが、僕の場合は「座左」。左利きだからではなく、書架はデスクの左手に配してあり、そこから左手で取り出すからというだけのこと。

◇ここ数年で一番手にしているのはこの本。時々思い出したように、開く。大抵は20~30ページくらいしか読まない。待ち合わせのときとか長く電車に乗るときとか。先週はフランシス親子の『矜持』を読んでいる途中で。常時バッグに入れて外出時に取り出して読む➡傷みが早いということになり、今やこの初版本はボロボロ。そろそろ家で読むためにもう1冊…と思っているところだ。

 ◇オモシロイのはまず語り口。この本は氏のデビュー作。出版されることを前提にして書いたものではなく、もとはホームページに、せいぜい百人程度の「身内」の読者を想定して書かれたものだと、「まえがき」で表明している。ナルホド、この語り口は…そういう経緯だったのか、と後で知った(前書きから読む習慣がないので)。ちなみに「拾い読みだけど」との見出しはそのまんまで、数ページのエッセイ的な作品の寄せ集めだから、どこからでも問題なく読める、イコール「拾い読み」となるわけだ。

◇ところで、このタイトル(大見出し)に関して、僕はもう7~8回トライしている。書きかけてはやめ、また書こうとして断念…の繰り返し。なぜかというと、連続して発せられる氏の言葉(文章だけど)のなかから、アフォリズムみたいに凝縮された部分を抜き書きするのは不可能なのだ。「ここ、いいな」と思われる部分を引っ張り出して紹介しようとすると、たとえば「古だぬきは戦争について語らない」は12ページのボリュームだが、そのなかの10ページ強を書き出さなくてはならない。

◇それをやったら一冊の本をほぼ入力することになり、「オモシロくてナルホド」なんてどこかにぶっ飛んでしまう。ま、写経と思えばいいのかもしれないが、その境地には死ぬまで達することはないだろう。

◇だから、一か所だけ引用することにした。本の冒頭の「古だぬきは…」の部分だけだが、読み始めにこれが出てきたことで「おっ、行けるんじゃない」と感じたわけで、ほかにもそういう人はいると思う。

◇以下引用。

<アメリカの高校生だってユーゴの戦争についての知識は私とどっこいのはずである。それにもかかわらず、彼らはあるいは空爆に決然と賛成し、あるいは決然と反対するらしい。なぜそういうことができるのか。…たぶんそれは「よく分からない」ことについても「よく分からない」と言うやつは知性に欠けているとみなしてよいと、教え込まれているからである。…反対側から言えば、ある種の知的努力さえすれば、どんな複雑な紛争についても、その理非曲直をきっぱり判定できるような俯瞰的視点に達しうる、と彼らは信じている。だからこそ、どんな問題についてもつねに「きっぱりした」態度をとることが強く推奨されるのである。アメリカではそれは十分な「知的努力」を行ったことのしるしであり、そうすれば「賢く」みえるということをみんな知っているからである。…これは私に言わせれば、かなり特異な信憑の形態である。民族誌的奇習と言ってもいい。…こういうものを「グローバル・スタンダード」だと言い募る人に私は強い不信の念を禁じ得ない…具体的にいま戦われている戦争について、それを俯瞰するような上空飛行的視点がありうるのだろうか? その戦争に対して、どう判断し、どうかかわるべきかを教えてくれるような知的なポジションというのはありうるのだろうか?…私はそんなものはないと思う…>引用ここまで!もういやだ。

◇文庫本の20行弱で、もう疲れてしまった。なのにこれだけでは僕がオモシロイ、と感じたことの8割は理解されないだろう。宣伝をしてくれと頼まれたわけじゃなし、別に~とは思うけど、なんか展開がオモシロクない。

◇少々イラついたままやめるのは業腹なんだけど、思い切って終わりにする。全編を何度か読んでなおかつ「また読もう」とするくらいオモシロくてナルホドな内田樹の本があるよ(そうでないのもあったけど)ということで、強制終了。